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松山家庭裁判所大洲支部 昭和58年(家)9号 審判

申立人

中華雪子

申立人

中華月子

上記申立人両名代理人

中華郷三

主文

申立人両名が、本籍愛媛県大洲市○○×××番地筆頭者中華太郎の戸籍に次のとおり就籍することを許可する。

1  申立人中華花子につき

氏名  中華雪子

生年月日  昭和二三年二月一七日生

父の氏名  中華太郎

母の氏名  韓鳳女

父母との続柄  四女

2  申立人中華月子につき

氏名  中華月子

生年月日  昭和二六年二月四日生

父の氏名  中華太郎

母の氏名  韓鳳女

父母との続柄  五女

理由

一申立の趣旨及び実情

申立人らは、主文同旨の審判を求め、申立ての実情として次のとおり述べた。

1  申立人両名の父中華太郎(本籍 愛媛県大洲市○○×××番地、明治二八年八月一四日生)は、昭和七年ころ、朝鮮において、申立人両名の母韓鳳女(本籍 朝鮮平安南道寧遠郡寧遠面都○○×××番地)と結婚し(婚姻届未了)、両名間に、一郎(昭和八年五月二〇日生)、一枝(昭和一一年五月四日生)、二枝(昭和一六年三月一六日生)、三枝(昭和一八年一一月三日生)が出生し、これら四名の子については、父中華太郎の戸籍に母韓鳳女との間の庶子としていずれも記載されている。

2  申立人両名の父母は、太平洋戦争の勃発後、家族を抱えて筆舌に尽し難い苦労を重ねつつ、住所を転々とし、終戦後、ようやく中国吉林省に落ち着き、昭和二二年七月一五日、婚姻届を提出した。

その後、申立人両名の父母間に、昭和二三年二月一七日、申立人雪子が、昭和二六年二月四日、申立人月子が、それぞれ出生したが、当時は終戦後間もなくの混乱期で、日中間の国交もなく、申立人両名の日本政府への出生届ができない状態であり、出生届未了のまま今日に至つた。

3  申立人両名は、現在、中国に存在し、日本人として登録されているが、待望の日中国交回復後、愛媛県大洲市在住の父方親族と連絡がとれ、父中華太郎の戸籍に申立人両名の記載がないことを確認し、日本国籍への就籍を求めて本件申立に及んだ次第である。

二当裁判所の判断

本籍愛媛県大洲市○○×××番地戸主中華太郎の原戸籍謄本、本籍同所中華太郎の戸籍謄本、中華人民共和国吉林省吉林市公証処発行の出生証明書二通(申立人両名分)、同処発行の公証書、磐石県明城鎮人民政府発行の結婚証、松山家庭裁判所調査官の調査報告書、同調査官宛の申立人両名の手紙、申立人両名提出の写真、中華郷三及び中華二枝に対する各審問の結果並びにその他本件記録中の各資料を総合すれば、以下の事実が認められる。

1  中華太郎は、明治二八年八月一四日、父中華治郎、母トヨの五男として出生し、本籍を愛媛県大洲市○○×××番地とする日本人である。

中華太郎は、大洲市で成育し、長じて大分獣医専門学校を卒業して直ちに朝鮮に渡つた。同地において、中華太郎は、鉱山技師として働らくようになり、昭和七年ころ、朝鮮人女性である韓鳳女(本籍 朝鮮平安南道寧遠郡寧遠面都○○×××番地白充玉三女、一九一〇年一月二二日生)と結婚したが、婚姻届未了のまま、同女との間に、昭和八年五月二〇日、第一子の一郎(男)を、次いで、昭和一一月五月四日、第二子の一枝(女)をもうけた。その後、中華太郎は、中国東北郡(旧満州)の吉林の鉱山に赴任し、同地において、韓鳳女との間に、昭和一六年三月一六日、第三子の二枝(女)を、昭和一八年一一月三日、第四子の三枝(女)をもうけた。

そして、以上の第一子から第四子までの子については、いずれも中華太郎により、出生届が提出され、同人を戸主とする戸籍に、父中華太郎、母韓鳳女間の庶子としてそれぞれ記載がなされている。(但し、第四子三枝は、昭和二〇年六月二七日、満州国間島省において死亡し、戸主中華太郎の届出により除籍)

2  中華太郎とその家族は、戦時下及び終戦直後の混乱した環境の中で、中国東北部を転々としながらも離散することなく生活を続け、終戦後間もなく、中国吉林省に落ち着いた。そして、中華太郎と韓鳳女との間に、昭和二三年二月一七日、第五子の申立人雪子(女)が、中国吉林省汪清県において、次いで、昭和二六年二月四日、第六子の申立人月子(女)が中国遠寧省本溪市において、それぞれ出生した。申立人両名の出生時には、日中間の国交がなく、申立人両名の日本戸籍へ出生届はいずれも未提出のままとなつているが、申立人両名が中華太郎と韓鳳女との間に上記年月日、場所において出生したことは、中華人民共和国吉林省吉林市公証処発行の出生証明書が証明するところであり、また、申立人両名の実姉中華二枝(昭和五四年一二月に日本に帰国し、現在、東京都墨田区に在住。)が当裁判所の審問に対し具体的に供述するところであつて、その証明は十分である。

3  中華太郎は、昭和五一年(一九七六年)四月二〇日、中国吉林省明城において、満八〇歳で病没したが、昭和七年ころから死亡するまで約四五年間、韓鳳女と夫婦としての生活を継続し、その間に、申立人両名を含む一男五女の六名の子をもうけたものであり、韓鳳女以外の女性と法律上ないしは事実上の婚姻をした形跡は見当らない。

中華太郎は、戦前において、日本統治下の朝鮮ないし旧満州で居住し、韓鳳女との間に四名の子をもうけているが、前記のとおり、四名の子全員について自己の戸籍に同女との間の子として出生届を提出しているものの、同女との婚姻届は、これを提出していない。

しかし、中華太郎は、終戦後、家族と共に中国吉林省に落ち着いてからは、同地において死亡するまで韓鳳女と法律上の婚姻をした夫婦としての扱いを受け、一九四七年(昭和二二年)七月一五日付の吉林省磐石県明城鎮人民政府発行の結婚証を得ている。また、中華人民共和国吉林省市公証処発行の一九八二年一二月一一日付の公証書においても、韓鳳女は中華太郎の妻であり、申立人両名らの母である旨の証明が得られている。

4  中華太郎は、申立人両名が成長するにつれ、自己の日本の戸籍に同人らの記載がないことを気遣い、この点については、いずれ日本への帰国を果たしたうえ入籍を実現する意向を申立人両名らに示しながら、ついにこれを果たすことなく、昭和五一年四月二〇日、中国の地において病没したものである。

5  申立人両名は、現在、いずれも中国人男性と結婚して家庭を営み、申立人雪子は大学の事務員、申立人月子は医師として稼働しているが、両名とも中国国籍は取得していない。

申立人両名は、直ちに日本に居住する意向ではないが、中国において日本人として扱われながらも無籍者であるため種々の不便を強いられており、父中華太郎の国籍地である日本の戸籍への入籍を強く望んでいる。

6  申立人両名は、日中国交回復後、愛媛県大洲市在住の従兄弟中華郷三(父中華太郎の実兄の子)と文通により連絡がとれ、同人を通じて、大洲市役所に父中華太郎、母韓鳳女間の嫡出子として出生届を提出しようとしたが、父母の婚姻についての証明が十分でないとして受理に至らず、やむなく、本件就籍許可の申立に及んだものである。

以上の認定事実に基づき、以下、申立人両名の本件就籍許可申立の当否について検討する。

まず、日本戸籍への就籍を許可するには、日本国籍の取得が要件とされるところ、申立人が出生等により日本国籍を取得したか否かは、我が国の国籍法によつて決定される。

そして、申立人両名のうち、申立人雪子は昭和二三年二月一七日生れであるから、同女については旧国籍法(明治三二年法律六六号)が、申立人月子は昭和二六年二月四日生れであるから、同女については、昭和二五年七月一日施行の現行国籍法(昭和二五年法律一四七号)が、それぞれ適用される。

新旧国籍法は、いずれも、出生の時父が日本人であることを日本国籍取得の要件としており、上記認定のとおり、申立人両名の父は日本人中華太郎であることが認められるから、国籍法上の父に自然的血縁関係上の父を含むと解せば、申立人両名が日本国籍を取得するにつき問題はないところ、国籍法上の父とは、法律上の父をいい、自然的血縁関係だけの父を含まないとするのが確定した判例である。しかも、この場合、父子関係は子の出生の時点において成立していることを要するとされており、出生のとき父母が婚姻しておらず、胎児認知もされていない子は、日本人を父として出生したということはできないことになる。

もつとも、旧国籍法においては日本人父の認知による日本国籍の取得を認めており(同法五条)、同法の適用される申立人雪子(昭和二三年二月一七日生)については、父中華太郎から同人の第一ないし第四子と同様、日本の戸籍役場に出生届あるいは出生と同時に認知届が提出されておれば、その時点での入籍の可能性があつたことが指摘されるところ、日中間の国交のない、しかも終戦後の混乱期にあたる昭和二三年二月の時点で、かかる法的手続を中華太郎に期待することは無理という他なく、また、その方法は現実にはとり得なかつたものと思料される。そして、申立人両名の父中華太郎において、申立人両名についても第一子一郎ら四名の子と同様に自己の日本戸籍へ入籍させたい意向であつたことは、上記認定事実のとおりである。

そこで、翻つて、申立人両名の父母である中華太郎と韓鳳女が、申立人両名の出生時に法律上の婚姻をしていたか否か、すなわち、申立人両名が中華太郎の嫡出子として法律上の父を日本人として出生したと認められるか否かについて検討する。

申立人両名の父母である中華太郎と韓鳳女の法律上の婚姻の有無については、前記認定のとおり、大洲市役所の戸籍係において、その証明が十分でないと判断された経緯があり、憤重な判断が求められるところ、申立人両名の出生時に中華太郎と韓鳳女は日本国外である中国に居住していたから、その婚姻の成否については、法例により定まる準拠法を適用して判断すべきである。

法例一三条によれば、婚姻成立の実質的要件は各当事者の本国法により、その形式的要件は挙行地法によるとされており、適用法規は、いずれも婚姻当時のそれによると解される。

前記認定のとおり、中華太郎は、昭和七年ころ朝鮮において韓鳳女と事実上婚姻し、戦前ないし戦時中において、同女との間に四子をもうけていずれも自己の日本戸籍に入籍させ、中国東北部を転々としながらも家族を離散させることなく生活を続けた。そして、同人は、終戦後、家族と共に中国吉林省に落ち着き、同地において、韓鳳女と法律上の婚姻をした夫婦としての扱いを受け、一九四七年(昭和二二年)七月一五日付の吉林省磐石県明城鎮人民政府発行の結婚証を得ており、同女との間に昭和二三年二月一七日申立人雪子を、昭和二六年二月四日申立人月子をもうけて、昭和五一年四月二〇日、満八〇歳で死亡するまで同女と夫婦としての生活を続け、中国吉林省吉林市公証処からも同女と夫婦である旨の証明が得られている。

そうすると、戦前ないし戦時中における中華太郎と韓鳳女との間の法律上の婚姻関係の成立は認められないけれども、終戦後の昭和二二年七月一五日時点における両名の法律上の婚姻の成否については、当事者の本国法と挙行地法に照らし、なお検討する余地がある。

まず、昭和二二年七月一五日の時点において、中華太郎は日本人であり、韓鳳女は朝鮮に本籍を有する者であるが平和条約(昭和二七年条約五号)発行前であるから、両名の婚姻成立の実質的要件については日本法、すなわち、当時においては「日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律」が適用され、両名に婚姻の合意が認められる以上、婚姻の実質的要件に欠ける点はない。

次ぎに、上記時点における申立人両名の父母の婚姻の形式的要件については、挙行地である中国の婚姻法が適用されるところ、戦後の中国本土における婚姻法としては、昭和二四年一〇月一日の中華人民共和国(以下、「共和国」ともいう。)成立前は中華民国(以下、「民国」ともいう。)民法が、共和国成立後は共和国法を適用するのが妥当であるとされている。そして、婚姻成立の形式的要件について、民国民法は、「公開の儀式及び二人以上の証人」(同法九八二条)を要する儀式婚を規定し、共和国は、昭和二五年五月一日施行の共和国婚姻法により、「婚姻は男女双方とも本人自ら所在地の人民政府に行つて登記しなければならない。」と規定し、登記婚の方式を採用している。しかしながら、共和国成立以前の中国各地に作られた人民政府の下では、いわゆる事実婚が認められており、共和国成立後、同国婚姻法施行後においても、慣習法として登記のない事実婚が有効として取り扱われていた経緯が存在する。(但し、昭和二八年三月以降は、大規模な婚姻法貫徹運動が展開され、登記婚の普及が図られた。)

しかして、申立人両名の父母は、戦前において約一三年間事実上の夫婦として生活し、その間に四名の子をもうけ、戦後、中国東北部の吉林省に落着いてからは同地において法律上婚姻した夫婦としての扱いを受け、一九四七年(昭和二二年)七月一五日付の前記人民政府発行の結婚証を得ているが、右結婚証の発行日付である一九四七年(昭和二二年)七月一五日の時点で中国東北部の吉林省に居住していた申立人両名の父母に民国民法の儀式婚を形式的要件として求めるのは余りに社会的実態を無視した法的判断というべきであり、(職権により調べた共同通信社編一九四九年版世界年鑑によれば、中華人民共和国の成立に先立ち、すでに地方的には人民政府の樹立が実現しており、中国東北部(旧満州)には一九四六年八月に東北行政委員会が設立され、事実上の政府が存在するに至つていたことが認められる。)、共和国成立前に中国本土の各地に作られた人民政府下では婚姻の方式として事実婚が認められており、共和国成立後においても慣習法として事実婚が有効として取り扱われていた歴史的経緯に鑑みれば、同時点での申立人両名の父母の婚姻の形式的要件としては、事実婚をもつて足りると解する余地があり、しかも本件においては上記人民政府発行の結婚証が得られている実情を考慮すると、申立人両名の父母は、昭和二二年七月一五日の時点において、挙行地である中国の有効な方式により婚姻したものと認定するのが実態に即した妥当な判断と思料される。(なお、共和国成立後、申立人両名の父母において共和国婚姻法に基づく登記婚の手続を了した形跡はなく、この点は遡つて同父母の法律上の婚姻意思の存否との関連で一応問題となるが、中華太郎は死亡するまで日本人として扱われ、国籍地である日本への帰国を念願していた者であるから、共和国婚姻法に基づく登記婚の手続をしなかつたとしても婚姻の意思がなかつたことを推認させるものではなく、むしろ、前記認定の韓鳳女との結婚生活の実情及び結婚証の取得の事実に鑑みれば、上記時点における同女との婚姻意思の存在は優にこれを認めることができる。)

以上の次第からして、申立人両名の父母である中華太郎と韓鳳女は、申立人両名の出生以前において、実質的要件及び形式的要件からして法律上の婚姻をしていたものと認めることができ、そうすると、申立人両名は、中華太郎の嫡出子として法律上の父を日本人として出生したものであり、出生によつて日本国籍を取得したものということができる。

そして、前記認定事実のとおり、申立人両名は、いずれも中国において申国人男性と結婚しているが、中国国籍は取得しておらず、出生により取得した日本国籍を喪失した事実は認められない。

また、中華太郎の戸籍に申立人両名の入籍記載はなく、申立人両名は、日本国籍を有しながら、本籍を有しない者であると認められるから、父中華太郎の戸籍への就籍を許可することとし、就籍事項については、前記認定事実からして、申立人両名の希望するところを不相当とする理由はないから、申立の趣旨のとおり許可することとする。

よつて、主文のとおり審判する。

(佐藤武彦)

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